「SM」と言う言葉を耳にしたとき、鞭、蝋燭、縄、手錠や革のコスチュームなどが脳裏に浮かび、「アブノーマル」と言う括りに入れて、自分には無縁のように感じる女性が多いだろう。しかしながら近年「プチ変態」「フェチ」のカジュアル化に伴って、「SM」そのものも特別に変態の代表のようには思われなくなってきた。
「SM」を嗜好する人々との対話の中で解ったことは、「サービスのS。満足(我が儘)のM」であり、飽くまでも「SはMがいて初めて存在が許されるもの」とし、セックスにおけるバリエーション、またはSexualityの一つの形態だと理解していた、、つまり、(セックスの一形態である)ソフトSMを「SM」だと思っていたが、どうやら全然違うものだということだ。セックスと「SM」は、厳密には関係がない、と言えそうだ。
「SM」も、その中で嗜好性がさらに分かれているので一般化は難しいが、「苦痛が精神を解放する」と言うことは合意できそうだ。しばしばM女性が、恋人の他に「ご主人様」と言われるS男性と関係(必ずしもセックスを伴わない)を持つことがあるが、それは、恋人を裏切ってのことではなく、あくまでも、それぞれ求めているモノが全く違うので、使い分けているに他ならない。
また、年齢の若い女性の方が、「SM」に対する抵抗感がなくなってきているようで、よくよく話しを聞くと、かなり経験を積んでいる女性もいるが、その多くは「ソフトSM」と言われるものの範囲だ。つまり、セックスを前提としたプレイの一環に他ならない。
「狭義のSM」は、その人の育ち・社会的地位・帰属社会階層・宗教・教育の影響を強く受け、それ以前にDNAレベルでの影響も視野に入れて考察すべきもので、他の変態と言われる行為、、例えば、Fetishismなどと違って「個人的な趣向」と言う括りでは収まりきらない部分が認められる。つまり「SM」の社会性だ。
かつてゲイの方々は、「何らの原因によって正常から逸脱した嗜好」と間違った判断をされていたが、「SM」の場合も「普遍性をもった存在」として認められるのだと思う。つまり、もともと存在が約束されていたのではないか、と言うことだ。
ここで言いたいことは「関係の数だけ感情がある」と言うことで、必ずしもそこに感情の順番や序列があるわけではない、と言うことだ。「SM」が正常か変態かの問いも然り、与えられた価値観や常識で「アブノーマル」として判断したり、「どちらが大切なの?」と言う質問自体が意味のないことかもしれない。














